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女たちへのいたみうた



「女たちへのいたみうた 金子光晴詩集」 集英社文庫


私は金子光晴という人を恥ずかしながら初めて、この授業で知ることができ、その人生をすこしだけ聞いただけですぐに詩を読んでみたくなった。そこで、カバー画が一番気にいったものを課題図書に選んだ。そのカバーの画は金子光晴自身が描いたものだった。中には思ったとおり、決して明るくなくとても孤独で、それなのにとてもユーモアがあり人間味のあふれる詩ばかりがあってそれがとても心地よいものだった。

なかでもこの詩集は「女」についての詩を主に寄せ集めたものであった。私は彼の人生の、その女性関係について聞いてとても興味を持っていたので、これはまさにもってこいの詩集だ。彼の女性に対するフクザツな視線がとてもカラフルに凝縮されている。

読んでまず一番の印象は、彼の女性に対する「トウテイ、カナイマセン」という心中がにじみでているということであった。それは男の子の母に対するような特別な感情に近いものではないかと私は考える。勝ち負けでたとえるのはあまり良くないが、母という存在がある限り、男性は女性に勝てないのである。またそれと同時に、女性への愛情と憎しみとが同居しているということもうかがえる。ツメタイけれどアタタカイ。赤くて黒い。そんな女性イメージが彼の詩を通して鮮やかによく見えてくる。女をぎゃふんと言わせてやりたいが、しかし女はあきれるほど強く、また残酷で、美しい。女はきれいなものもきたないものも、全てを持っている。アンビヴァレンスなのだ。


だが私はこの詩集を読んでいくうちに、彼は女性のこと以外でも、そういったアンビヴァレンスな感情やものの動きをつねに冷静に見つめていたということに気が付いた。というよりむしろ、この精神のほうが先に彼の中にしっかりと根をおろしているのだった。何か強烈なものにホンロウされつつ、だが冷静に客観的に本質を見据えている。自分のことを「むかうむきになってるおっとせい」と表現したのは、そんなところから出てきた言葉ではないだろうか。到底かなわない強烈なものと対峙しているちっぽけでリアルな自分を直視している、詩人としての自分。彼はある種、語弊をおそれずに言うと、分裂していたのではないだろうか。そんな意味では、詩人の彼というのは永遠に孤独な存在である。


さて一番私のこころにどうしようもなく残り、何度も読み返した「水勢」の「(もはや、水のざわめきの音よりほかに、)」からは宇宙的な世界にポツンとたったひとりで立っているような風景がひろがる。水の音しか聞こえない世界。それは、生まれてもいないし死んでもいないような、或いはそのどちらでもあるような、不思議なやわらかい世界が私の前にゆっくりと広がっていく。孤独な不安でもあるし全てと一体化している安心でもある。これが、先に述べた彼の精神の基盤であるような気がしてならないのだ。


詩について彼は「そろそろ近いおれの死に」の中で「あんなものがこの世になければ、もっとさっぱりとした日々を送り、のびのびと寝てくらせたものを」とうたっている。だがこれは彼の、詩に対するどうしようもない愛情だと私は受け取る。じっさい彼は詩を、書き続けたのだ。

同じ詩の中で「淋しくないかって?それも飛んでもない。生きてる時だって いつも孤りで、不自由なおもひをしたことはない」とある。彼の詩の中にあるのは、ただむなしいものだけではない。そういう孤独と同時に、何かを美しいと思う一瞬や、世界で起こる全てのムーブメント(ばかばかしいものや、小さいことや、目に見えないものまでも)をしっかりと感じることができる瞬間というものを彼の詩はたくさん持っている。彼はきちんと詩という芸術作品にしているのだ。詩なんてものがなければのびのびと寝てくらせたものを、と言いつつもやっぱり詩を書く必要があった金子光晴。彼が生きている分裂した世界をなんとかひとつに統合していたのは、まぎれもなく彼の身体であろう。彼は金子光晴という身体を通して、アンビヴァレンスな世界を、感情を、はっとするほど美しく描いた。それが彼の詩なのだと私は感じた。