ourmusic

ないものねだりのろくでなし

jet



◆日記

jet行ってきました、クリス、クリス、やめてくれ、あああー、もうなんか。死んでもいいと一瞬おもいました本気で。ハッピバースデーておれのこと言ってくれてんのかと!(思い過ごしも恋の内)けっこんしてくださいくらいの勢いで、それはもう。オアシスのちびっこみたいだった

tadanoriyokooの森羅万象買った。見ごたえじゅうぶん。すげえ笑いながら見たぜ、なんだいこれはー!とか大爆笑で、もうだいすき。おれも今年はコラージュとかやってみたいですね、ぎゃふん!

ついでにUne Femme est Une Femmeのパンフレットまで買った。やっぱりゴダールの中でいちばんすき。

いろいろと考えるべきことはあるなあ、と。あと、不二家でHがうまそうにパエリア食ってんの見てたら、人間関係ってあれだなあどうだろうなあとかふと。ぎゃあぎゃあ


◆考えるということについて考えた

やはりいろいろ考えてしまうわけよね。

なにか自分の考えを言っている人とか書いている人とか、なんらかの形で自分以外の人の意見が自分の頭に入ると、「ああわかるな」とか「んーそうは思わないな」っていうどちらかが必ず生まれるわけで。で「ああわかるな」のほうだと、でもなあ、言われたからそんな気がするのかもなあ、と思ってしまうし、「そうは思わない」っていうほうだと、さらっと流してスッカリ忘れちゃうか、なんとなく気になって後々まで頭に残っていたりとか、だからつまりかならず、「しっくりこない」っていう感じになるのだよね。それが、「やはり考えてしまうわけよね」の意味なのですが。

そういう「しっくりこない」感じがいやで、すごく人としゃべりたくないときがあったり、なんだかアグレッシブになってるときはさあかかってこいとばかりに対話をしたくなったり、そういう波があります。で、波は波なんだけれど、その波は同じ水にある波で、つねに隣り合わせ、で同質のものなわけなんですよ。私はずーっと動いているし、私は私なんかじゃないし、影響されあうべきだ、っていう理念はつねに頭にあるんだけど、どこかで「私は私だ」って思うことを完璧に捨てきれない。なぜなんだろう。まあわかるわけないか。

早くも幸先不安な彼女


◆オマージュ

私も例外なくお昼は牡丹と薔薇を見ている。薔薇の歪み方がほんとにいい。ああいう女は絶対に近づきたくないけれど遠くで見ていたいかんじ、たまらんなー。

特攻隊の出動と毎日の家からの出勤はどちらも「お出かけ」と言ってしまうポップさを追求しようとおもう。同時代カンガルーができることは、それかもしれない。向かっているものや見守られているものの、なにかそういうスピリチュアルな体験というのを、重く見るだけでは、、、見えないものを見る、という以前の問題に、見えるものを見ない、っていうのはどうなのっていう問題提起として。

頑張るということを頑張っているときには意識していないものだ、とかそういうエスとかの世界はどうでもよくて、もうすこし未来の現実に視線を向けていたいものだ。理解をする、というよりは進みたい、と思う私としては。よくわからないけれど。それが私なりの現在や過去の歴史などへのオマージュなのかもしれないなあとフト思った、寝ながらだけど。

なんかまだすげー短い時間でしか考えてないことをとりあえずメモしてみたので、もう少し掘り下げて考えてみたい問題もいくつか。とりあえず。