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眼と精神



眼と精神 / メルロ=ポンティ

哲学でありながら、芸術論であるとみる。かつて中原中也が芸術論覚え書で「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」と言ったが、まさにそこから芸術作品へと発展させるプロセスを「人間以前のまなざし」という言葉を使って述べている。中原は物が持つ言葉以前のものを詩で実現させようとしたが、メルロ=ポンティは眼について述べるゆえ画家について説明している。

ベレンソンのイタリア絵画に対する「この絵は触覚的価値の喚起だ!」という言葉について、絵は何も喚起しない、むしろその逆で、ふつう見えないとされているものを画家の手によって見えるように存在させるのだから、筋肉的感覚を借りる必要などないと言う。それで私は、視覚つまり絵・写真や映像によって触覚的なものを催させるというのが五感を取り戻す方法の理想形だと思っていた(今もその部分はある)が、職場でさまざまな絵を見ていくにつれて、筋肉感覚の有無というより、画家個人のオリジナルな視点を含んだ絵のほうがじつは深みがあって面白いし五感を刺激させるものだなと思うようになってきたことを思い出した。しかし例えばヤン・シュヴァンクマイエルは触覚的な映像を撮っているが、彼の場合それが彼オリジナルの視点なので、面白いのだと思う。

それでそのオリジナルの視点、というもの、ここに筋肉感覚を含んでいるのではなかろうか。だからつまり絵・写真・映像に筋肉感覚があるのではなくて、作家の視点自身に筋肉感覚がある。眼は肉体なんだから当たり前だが、メルロ=ポンティも「見る、とは離れて持つこと」と言う。

ではどのように画家は世界あるいは物体に近づき、身を開くのだろうか。多くの画家は彼らが物を見ているのではなく、物が彼らを見守っていると言う。画家は世界を貫こうと望むのではなく、世界に貫かれるべきであるとさらに言うがそれはどういったことなのだろうか。それは画家がただ存在し世界に飲み込まれるのを待つということだ。何が見、何が見られているのか、何が描き、何が描かれているのかわからなくなるほど見分けのつかない能動と受動とが存在のうちにあり、描くという行為は、世界という身体の存在と己という身体の存在との共同作業であると言える。もっと言えば描くだけでなく、写真を撮るときも、楽器を演奏するときも、その対象である物と自分の身体との共同作業であるのだ。それが世界に貫かれるべきであるという言葉につながるのだろう。ということは、画家が世界を貫こうとするのと同じように、物は画家を貫こうとするのではないだろうか。これがメルロ=ポンティの言う、「物のうちに視覚作業の兆しがある」ということだろう。

まさに眼からうろこの芸術論。これを読むのと読まないのとではまったく違ってくるように感じる。