ourmusic

ないものねだりのろくでなし

幼児の対人関係



「幼児の対人関係」ブックレヴュー  M.メルロ=ポンティ,「幼児の対人関係」 『眼と精神』,(みすず書房


「幼児の対人関係」では、幼児が自己と他人とを知覚していく様子を見ていく。幼児の知覚がどういうもので、その知覚が対人関係とどのような関係をもっているのかを述べる。そこには鏡像という要素が与えられ、この鏡像を鍵に紐解かれる。筆者によれば、対象の知覚の仕方と対人関係との間には密接な関係がある。これは単純に一対一の関係というのではなく、二つの現象が合わさってひとつの全体を形成する相関関係である。

ある者は、ある物を見て、その物の諸局面が容易に符号しないばあいも、その諸局面を容認しようとする。しかし「心理的硬さ」を持った子どもたちは、相互に符合しないようなこと、微妙なわずかの差異があることを認めようとしない。彼らは硬さ、つまりAかBかの二分法の中にいる。この硬さは家族という彼らの最初の対人関係の中でまず生まれる。幼児は両極にある二つを結び付けようともしないし、それが同一存在にかかわっていることも認めようとしない。両義性、つまり矛盾を真正面から見据える能力を持たない。硬さを持った子はそれに気づかず、自分の人間的性格を相手になすりつける。

 そしてこの硬さが外部知覚にも表れてくるのが知覚的硬さだ。たとえば自分に提示された三角の図形がまるく変化していくと、図形が崩れ始めているということ自体は認めても、この移行現象を認めたくない。強烈な感情的両極性が、両義的・混合的な性質の状況があるということを認めない。

 しかしまた幼児の知覚は、育てられた環境ももちろん関係はあるが、外界と関係するときには彼の内的特質がつねに介入している。成人だけでなく幼児もみずから外的諸条件に対して態度をとっている。生得的であるものと、社会的形成によってその人に属するにいたったものとのあいだには、境界を設けることができない。


 今まで議論の余地なく承認されていた心理作用の認識は「私の感覚は、それが私にわかるようにはあなたにはわからない」というものだった。そこからは他人の心理作用はその人の身振り・身体から推測しうるだけで、自分には全く接近できないものだという考えが帰結する。しかし筆者は、ではなぜ他人の身体という物体を通して他人の心理作用を想定し知覚しうるのか、それは「私の心理作用が私しか近づけない」という偏見を放棄すれば解決に近づく、と言う。じつは我々は他人の模倣ではなく、他人の行為を模倣する。他人の動作が自分の運動性に訴えかける。つまり自分の身体がもはや私個人にのみ属する感覚のひとかたまりではなく、むしろ周囲の空間との関係を含んでいて、自分が持っている身体意識は単なる自分の身体位置の知覚である。だからこそ他人の視覚像が自分の身体について持っている観念によって解釈されることで他人の心理作用を知覚しうるし、それから自分の身体が見えてくる。


ここから重要な鏡像の話になる。幼児は鏡で自分の身体を見ることによって、自分の身体が他人に見えるものだとわかり、面白くなって鏡と戯れる。まず他人の鏡像と他人の実際の身体との区別を徐々に理解し、それに遅れて八ヶ月目の頃、自分の鏡像に反応を表す。なぜ他人の鏡像の理解より自分の鏡像の理解が遅いのか。それは他人の身体についてはうまく処理できたものの、自分の身体については「自分はここにいて鏡の中にいるわけではないから鏡の中に見える自分の身体の視覚像は自分ではない」という理解が幼児には難しいからである。そのため自分の身体を、身体の分身と見る。

幼児は他人の身体の中にも自分を感じる。それは「第二の身体」としてではなく、遍在的に存在する。対人関係の中に介入してくる癒合性、つまり自己が対象や環境と未分化の関係にありそれに癒着し融合している状態で存在しているのだ。幼児は自分の見ているものに自己を同一化するため自分と他人の境界がない。この仕切りの欠如が癒合的社会性の基礎である。

また身体そのものだけでなく、行為にも癒合性を見ることができる。たとえば我々はある動作を以前に行ったことがなくても、自分で実際に遂行することがある。これは幼児のばあいと同じで、身体そのものにその再編集能力があるということだ。幼児は因果関係をはっきりと分けて考えて行動しているのではなくて、状況にとけこんでいる。多様性を持つ状況や視点が相互的であることを理解できないため、自分の動作と他人の動作とが区別できない。


 最後に著者は三歳の危機について述べる。三歳頃になると、自分の身体や思考を他人のものだと思うようなことは止め、自分固有のパースペクティヴや視点を採用する。そのため状況が多様性を持っていても、自分が「それを超えたある何者か」であるということを理解できる。だが癒合的社会性は清算・消失されてしまうものではない。三歳の危機とは、それを遠くに押しやるだけのことだ。たとえば愛するということは必ず他人との不可分な状況に入ることであり、すべての深い人間関係はそのような不安定な状態を生み出す。



さて筆者は言語の習得と家族的環境との間に深いつながりがあるということの具体例として、たとえば幼児に新しい弟ができたときに言語能力が退行することを挙げる。それは状況や役割が変わることに対する拒否からそれがあらわれる。脱中心化により克服するが、幼児においてはただその状況から遠ざかり逸脱するのではなく、さまざまな概念を相対化することを学ぶというやりかたで脱中心化をはかる。筆者はこれがものをまとめる知性の操作によってではなく、家族との関係を立て直すその力によってなし遂げられるということに着目する。そして言語においては、ある局面、家族との関係に変化がおこるときその子に必要となった態度の言いあらわしかたを習得しだすと筆者は述べる。

 しかし兄弟のいない私は自然と一人っ子の場合を考えた。変化のない場合は言語の習得はずっと遅れてしまうのだろうか。私の場合、周りが成人ばかりだったために自分に必要とされる態度はずっと子どもらしくあることというものだった。だが私の言語の習得はむしろ早かったのだ。そしてどこでそんな言葉を覚えてきたのだと大人たちに笑われるのがうれしかった。この場合も、うれしいという感情と難しい言葉を覚えるという知性とが連帯する証明となりえた。このことから対人関係の変化だけでなく、他人との関係を維持させようとする時も、つまり幼児がみずから態度をとるとき、彼らは言葉や知覚のタイプを学ぶのではないだろうか。この、みずから態度をとるという点が重要なのである。


また筆者は「自分の知覚が他人の身体や周囲の空間によって生まれており、それから自分の身体が見えてくる」と述べる。ということは、自分の身体や周囲の空間から他人の知覚が生み出され、他人はそこからみずからの身体を発見する、ことにもなる。しかし身体、とくに表情は笑顔のような一定で単純なものばかりでなく、ときに繊細で複雑なものである。たとえば、一見したところ無表情だがよく見ると悲しい目をしている場合と、眠い目をしている場合とに我々は理由なしに判別できることがある。そういった簡単には理解しがたい身体に出会ったときの知覚は、どう自分の身体へ結びつくのか。

私は「身体が知っている」という言葉があるように、我々はふだん「知覚する」という行為を自覚しているだけで、心の動きや流れそのものは身体のみが自覚していて、だからこそ身体が心の動きを繊細に表現する能力を持っているような気がしてならない。だがこれがさきに筆者が述べていた「生得的」な部分であり、身体の持つ再編集能力と重なるところだろう。この部分と幼児がみずから態度をとった結果の後天的なさまざまの部分との境界が大きく常に揺れていて、ときに誰かが悲しい目をしているのに気付いたり気付かなかったりしながら、その知覚ひとつひとつが自分の身体をいちいち発見させるのではないだろうか。