ourmusic

ないものねだりのろくでなし

月に吠える



「月に吠える 萩原朔太郎詩集」角川書店


 私は萩原朔太郎という詩人の作品を生まれてから一度も読んだことがなかった。国語の教科書に名前と、そして綺麗な横顔が出てきて、月に吠えるというタイトル、なんだかセンチメンタルでナルシスティックな詩人だという偏見を持ち続けていた。あるいは、堅物のイメージを持っていた。だが授業で読んだ「春夜」に私はすぐ反応してしまった。この詩の病的で過剰なまでの繊細な感覚に、なんだか懐かしさと強烈な愛おしさを感じたのだ。そしてこういう出会いは、いつもとても幸せなものだと感じる。


今回、この本を通して読んでみて、ふと一番に、なんて透きとおっている詩なのだろうと思った。いや、詩人が透きとおっていると言うべきかもしれない。

まずこの文庫本全体から感じた色は夜の深い青、藍色であった。病的な雰囲気がそう感じさせるのだろうか。しかしその中にすこしの黄色い明るい光のようなものが混じっている。それがまたぞっとするほど美しいのである。また、物体や人物などの境界がぼやけていて、あるいは、ふにゃふにゃふにゃと絶え間なく境界線が動いているイメージが私の頭に広がった。

「のをあある とをあある のをあある やわあ」というユニークな犬の遠吠えの響きと、痩せっぽっちでびっこをひいている犬がふらふらと真夜中の道を歩く姿が重なっていく。または貝の舌が力なく水に揺られている、糸のような三日月がのぞいている、それはまるでヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵のようである。

また、びろびろ・しなしな・びらびら・ちらちら・べろべろ、といったちょっとうす気味の悪い表現からも、その物体自体から何か得体の知れないものがまるで生きているかのように空間へ、私の方へジワリジワリとしみだしてきているような感じもする。まさに、よせくるのだ。そしてすっかり私はこのイメージに飲み込まれてしまうのだ。


普通の人間は(というより芸術家や詩人ではない人間は)、自分の見た風景や聞いた音などを、きちんと頭の中で整理・分類して記憶に残す。そうしないと狂ってしまう。だがこの詩人はまるで、見た風景と、聞いた音と、嗅いだ匂いとを、全ていったんまぜあわせてしまってから、そうしてやっとそのとらえどころのないものを文字にしているような感じがする。だが、それこそが人間本来の、自然な感じ方なのかもしれない。しかしそれができるのは、本当の孤独を味わうことができた人であろう。


また「月に吠える」から「宿命」へと年を追うように読みすすめていくにしたがって、彼の、全てを喪失したという感覚から喪失していないという感覚への移行を徐々に感じた。それはつまりどういうことかというと、彼の見たものや聞いた音、嗅いだ匂いなどの、全てのものに彼自身が孤独になり身を投じようとしていたので、初期の頃は喪失しているという感覚を持っていたのではないかと私は思ったのである。それが、「宿命」の「死なない蛸」や「虚無の歌」では彼自身もそこに溶け込みきってしまったので、ついに喪失していないという感覚がうたわれているのではないだろうか。詩人が透きとおっている、というのはそういうことだ。


萩原朔太郎が、現代人の病的なものをうたったといわれるのは、この孤独というキーワードが大きいのではないだろうか。しかし彼自身はとうとう、一切を失ってなおかつ何も失っていないのだということに気付いている。ビールの色と青空の色と高さが詩人の透きとおった身体と精神とを見事に突き抜けていくのが、私の最後に見えたイメージである。それは永遠であり、犬の遠吠えの響きがいつまでも耳に残っているような感じであった。