ourmusic

ないものねだりのろくでなし

ドラマティック



友人Tと恵比寿で会う。日々の小さな生活は確実にドラマティックに動いている。


長く一人で楽しんでこれた人は、ある日「あなたのことがとても好きなのでこれからは二人で頑張って行きましょう」と言われると、その出会いにとまどってしまうのではないか(プロポーズでなくても!)。 今までと何が変わるのか、それは責任が出てくるって話ではなかろうかと思う。

例えば極端な話、友達が犯罪をおかしたら、あ〜ばかだねとかかわいそうにとかは思うけれど、恋人が犯罪をおかしたら自分も猛烈に反省する。犯罪を止められなかったことに対する責任と、被害者への責任との両方である。親友なら前者はあっても後者のファミリー的な連帯感はあまりないんじゃないかしら。

セックスする以上、あなたはわたしだしわたしはあなただというのがうまくあてはまる。責任を持つことはやっぱりこわい。ましてや連帯責任だなんて信頼関係の上やっと持てるものでとても重くて大変なことだ。でも楽しいこともたくさんあるのではないかね。まあどれを選んでどう暮らしてくかは自分次第なんだけど。


ところで子はカスガイと言うけれども、夫婦はやはり血がつながっていないのでときにわかりあえない部分があるだろうけども、だから子というものを産んで家族みんなで育っていくんだろうねという話を母とした。ら「最近は子はカスガイでもないらしいけどね」と言う。私に対して言ってるのか?私はいいカスガイだと思っているのに…。


うちの母はなんでも虫のせいにしたり、世間に砂をかけられるよ!(石ではない。石よりむかつくが怪我は少ないということらしい)と時々わけのわからない脅しをかけて父と私を異次元から見ることがあるが、空想力と観察力に長けていると思う。前に「あたしにとってはやっぱりおばちゃん(可愛がってくれた父親の姉)やペッパー(昔の飼い犬)が神だね。宗教は単なる社会的なコミュニティだけど禅だけは違うんじゃない。唯一自分と向き合うものだし」と先祖崇拝を匂わすことを言っていて心底尊敬したものだった。

教祖教典教会は先生教科書学校と同じだから宗教も何か特別なものというよりは学校とか町内会とか国とか習い事とか、そういう社会的なコミュニティに過ぎなくてそれを知らない人も気にしない人も好きな人も嫌いな人もいるしあたりまえの中に生きている人もいるのだという。だけど私はファンタジーの神に頼らなくても強いからねぇとけろっと笑っている。身近な絆を信じているのだ。

来月からカルチャーセンターでウクレレを習うらしい。ささやかで楽しいウクレレコミュニティを作るのだろうか。絆の凄さがわかっている人は、一人でも楽しくて、何かの縁で二人になったとき三人になったとき、もっと楽しいんだろう。