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ないものねだりのろくでなし

シン・ゴジラ

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今日は登校日、そしてなおかつ、ついたちである。やることはただ1つだ。
劇場に行きシン・ゴジラを観る---

 

これは、すごかった。見事にアンビバレントな世界を認めまるごと受容していた。これは内省を繰り返している人、何かになりたいけどなれない人、勝負したい人、にとっては大きな影響を及ぼす映画だ。大変だ!映画って本当に面白い。

 

蘭堂(ミスター理想)と赤坂(ミスター現実)、この世界にどちらも必要で大事な人物であることは大前提であるが、まずヤグチ作戦に集まる面々が素晴らしい。自衛隊の至極真っ当で現実的な肉弾戦の精神力の強さとスキルの素晴らしさとはまたちょっと違う部分で響く。各々が黙々とやるべきことをやり、理想を現実に変えていく力。やはりおたくの力は未知数であり、我々の想像力の限界を凌駕するのだ。


また、政治家という大きな世界を見る人と専門家という小さな世界を観る人とがやはり相反しているのだが、皆それぞれ精いっぱい想像して生きている。だからどちらも正しいわけ。
そして対岸の人物を信頼する→だからこそ→好きにすればいい、という図式となる。敵か味方しかいない、勝ち負けしかない、そんな世界に生きているからこそ強い信念を持っていられる。


だからやっぱり人間はくそで素晴らしい。私利私欲にまみれ醜悪でおぞましい虚構を作るパワーを持つのは人間。私利私欲を捨て理想を現実に変えるパワーがあるのもまた人間。

 

 

ここからは個人的に心に残ったシーン。


カヨコがガッズィーラと言うたびにああこの生物は神の化身なのだったと思いださせてくる。GOD、を強調しているような気がして。

 

あと街の光が全て消えた中、孤独なゴジラが初めて放射能ビームを出すシーンは、極上に美しいのとどうしようもない莫大な人間のくそさを感じてしまって、ド琴線に触れてしまい、涙涙の大爆発でやばかった。はっきり言うが絶望とは違う。アンビバレンスそのものを目の当たりにしてしまった、これはもしかしたら敗戦の感覚と似ているのかもしれない。自分が作ってしまったものが忌み嫌われ孤独に暴れて制御不能となっている。自己責任を感じ自決したくなる気持ちと他人にすがり救済を求めたい気持ちとが。とめどなく。終わりなく。

また野村萬斎が動いてるからかグロテスクながらも妙に人間ぽいわけでね〜動きが。

 

あとね、ヤシオリ作戦が成功して無事に終了したところ、フクシマ以降の我々としては見慣れてしまった白い防護服&マスク姿のみんな歓声じゃなくて静寂なの。音も動きもナチュラルに静かなのよ。あれがすっごく日本、日本人だなぁって感じられて、本当に良かったシーン。

 

それから劇中パッと頭に浮かんでくることをその直後に見事に全部回収し消化してくれてた。例えばこの人たちちゃんと寝てるのかな?→はいりのおにぎりや綺麗なワイシャツが登場したり、日本はやっぱりずっと敗戦国なのかな?→戦後は続くよどこまでも、ですか?って蘭堂が言うとか…。そういう配慮がきちんとある映画だったし、監督の繊細なやさしさに満ち溢れてる。

 

あと劇中でのドイツやフランスのような立場が存在してるっていうことが、人間の世界の救いなんじゃないかな?て思う。第三者、の重要性。可能性。あと蘭堂(理想)と赤坂(現実)という対岸同士にとってはある意味カヨコ(どっちでもない)、という第三者。相反している、矛盾している世界に手を差し伸ばせるのは、第三者だし、それを信頼しそこに任せて流していくことでまた社会はまわっていくし救われる。

 

低俗な言葉で書くのもある意味よく伝わるから書いておくとすれば、あるいは文字通り、全世界が蘭堂に抱かれたよね。
ただ最後の尻尾の人骨の意味が…わからぬーー。。この辺は考え出すとキリない!

 

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つまり我々のこの今生きてる現実の中で、ある日突然FAKE(人間が作ったリアルな虚構)が神の化身として命と最強武器を持って現れたら?という話であって、そしてあらゆる物事のこれからの価値観や可能性、拠り所とは?基準とは?という精神構造の崩壊、脱皮及び成長のドキュメンタリーなんだわね。

 

ずっとこの余韻噛み締めてたいからパンフレット買いました。
私は迷わず「信・ゴジラ」と言いたい。
庵野監督にありがとうと言いたい。

 

んで、アニはどこにいたのよーーー!!